マラソン折り返し地点

味の素スタジアム前

 二〇一六年夏季オリンピック大会の開催都市に東京が名乗りを上げている。今から九年も先の話だ。筆者はもう五〇代半ば。情けない話だが、そこにどんな自分がいるか想像できない。
 では前の東京オリンピックのころはというと一九六四年(昭和三九年)で三歳、みっちゅ、である。記憶はほとんどない。かろうじて、ハタキ(これも懐かしいアイテムだなぁ)を持って「聖火、聖火」といいながら駆けずり回っていたという記憶がかすかにあるのだが、これとて後に両親から聞かされた話を自分の記憶と勘違いしているのかもしれない。第一八回東京五輪とは、それほど昔の話なのだ。
 ただし五輪にまつわる多くの伝説は、その後のニュース映像や断片的に見た市川崑監督の映画『東京オリンピック』などで記憶に刻み込まれていった。東洋の魔女や赤鬼ヘーシンク、重量挙げの三宅義信などを実際に見たわけではないが、なぜか「懐かしい」という形容とともに思い出される。

とろろ美味しゅうございました……

 そしてマラソンアベベ・ビキラ。前回ローマ大会では裸足で四二・一九五kmを一位で走りきったエチオピアの英雄は、東京ではしっかり靴を履いての連覇だった。ゴール後も表情ひとつ変えず、体操をする余裕まであったという。しかし映像の記憶として残っているのは、二位でスタジアムに戻ってきながら、トラックで英国のベイジル・ヒートリーに抜かれてしまった円谷幸吉の姿だ。アベベの優勝はしょうがない、しかし日本人が銀メダルだ! と喜んだのもつかの間、最後の最後でかつての敵国イギリスの大男に、小柄な円谷は抜かれてしまう。当時の日本人はさぞや悔しかっただろう。最後のひと踏ん張りを見せられなかった円谷に対する根性論を中心とした批判も噴出したと聞く。
 しかし改めてあの映像を見直すと、もう限界でよれよれの円谷に比べて力強いストライドで迫るヒートリーの優位は明らかである。合理的なトレーニング法と根性論の差を如実に示した結果だ。メキシコ大会を目前にした六八年一月、周囲からの重圧に追い詰められた円谷の自殺は悲劇というしかない。残された遺書は涙を誘う。

ラソン折り返し地点は飛田給にある


 それはさておき、筆者が調布に引っ越したときこの街に様々な「記念」が残っているということを知った。新撰組近藤勇の生家があるというのも面白いと思ったが、甲州街道にマラソンの折り返し地点があるというのは、身近な歴史を感じて興味深かった。もっとも見つけたのは偶然で、小学校六年のとき友人たちと府中市方面に向かって自転車で走っていたら道の上に大きな標識が出ているのを見かけたのだ。「へー、ここをアベベたちが走ったんだぁ」と思わず今自分が走ってきた道を振り返って見た。さらに走って府中市内に入ると五〇km競歩折り返し地点の記念標識もあったが、やはり競歩よりはメジャー競技であるマラソンの記念が調布にあることが嬉しかった。現在その標識のある場所のまん前には味の素スタジアムが建っている。

無人の国立競技場


 一方、マラソンのスタート・ゴール地点である国立競技場の片隅には、秩父宮記念スポーツ博物館という小さな施設がある。日本のスポーツの歴史に関する展示物が陳列されているのだが、はっきりいってショボい(笑)。ただし、なにもイベントが開催されていないときは、博物館の入場券(三〇〇円)で国立競技場内に入れるのだ。ラグビーやサッカー観戦で何度も訪れた場所だが、誰もいないだだっ広いスタンドに入るのは初めての経験で、思わず写真を撮りまくった。さらに浮かれたあまり館内で販売していた『東京オリンピック1964』なる冊子も買ってしまった。一二〇〇円ナリ。写真を多用したグラフ誌といった感じで、当時のマラソンコースを現在の道でたどる企画は興味を持って読んだ。多くの場所が当時と変わってしまったが、仙川のキューピーマヨネーズ工場周辺はあのころの面影を色濃く残しているという。
 ちなみに最近の五輪男子マラソンは大会最終日、閉会式前の最終競技であることが多いが、東京オリンピックでは閉幕三日前の一〇月二一日に行なわれた。

東京オリンピック1964・2016 (メディアパルムック)

東京オリンピック1964・2016 (メディアパルムック)

もういいよ、オリンピック

 さて、二〇一六年の東京開催に関してだが、はっきりいって反対です。本来五輪は都市が開催するもので、国の威信とかそういうのを見せ付ける場ではないはずなのだが、現在は国を挙げてのプロジェクトになっちゃっている。先日決まった冬季大会の選定基準などモロにそういう感じだ。もういいよ、もうそういうのやめようよ。オレの国のほうがかっこいいとか、わが国は金持ってんどーなんてのを競い合うことに税金を使うバカバカしさに気づこうよ。
 石原慎太郎東京都知事の言い分として、若者に誇りを持たせ、勇気を与え、などという文言があったように思うが、東京に住むイマドキの若者がオリンピックごときで大騒ぎするかね? 熱心に見るのはサッカーくらいで、あとの競技はオヤジたちとテレビ局がはしゃぐだけだろうと思うよ。電通だってめんどくせぇなぁ、なんて思ってるんじゃないかな?
 六四年当時の東京はオリンピックで大きく羽ばたいた。おかげで東京の古い街並がメチャクチャにされたという恨みはあるが、高度経済成長という大きな恩恵をもたらしたのも事実だ。だからこそ東京はもういい、ってか先進国の大都市はもういいだろ。いま頑張っている国にゆずろうよ。そういう国では資金不足で開催できないというなら、金持の各国が出し合って協力してあげようよ。東南アジアやアフリカ諸国や中央アジアあたりで開催しようよ。あるいは中東で開催して戦争を一時的にでも止めさせようよ。理想論にすぎるって? でもクーベルタンこそ愚直なまでの理想主義者じゃなかっただろうか。
 候補地が福岡だったら素直に応援したのになぁ……。

東京オリンピック [DVD]

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使用機材

CANON IIF / VOIGTLANDER COLLAR SKOPAR 21mm F4 / CANON 50mm F1.8 / KONICA MINOLTA PAN 100

一眼レフが続いたのでちょっと毛色の変わったカメラを使ってみた。キヤノンは戦前からライカに追いつけ追い越せでカメラを設計していたが、1952年のIVSb型でレンジファインダー形式は一応の完成形を得る。変倍ファインダーなどライカにはない機能を盛り込んだカメラだ。このIIF型はその廉価版で輸出専用モデル。ネットオークションで2万円程度で購入。シャッター速度が1/500までなのは不満だが案外使いやすい。あ、でもフィルムの装填はかなりめんどくさいけどね。でもそれはライカも一緒だ。これをぶら下げて歩いていると結構目立つ。カラーフィルムはあまり入れたくないカメラだ。
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